Oh, My Love.

心にしまっておいた私だけの真実。私の名前を違う言語でいうと、oh, my loveでしたのでタイトルにしました。

私たちのテスト。

人の道徳心が試されるとき いじめや、虐待、そのようなことを目にした事がない人はいないだろう。子供から大人にかけて、他人が他者から虐げられてると気づいた時、気づかないフリをすることさえ、その後の運は法則により下落していく。本人は何も悪いことなどしていない、そう思っていても、法則は始動する。いじめた本人は、意識的だから、その後は反省しやすいが、自覚なきスルーは、なかなか運の下落に気づかない。 なぜ、関係していないのに、作用するのか。 それは、人に備わるはずの道徳心という基軸、そのDNAが不活発になるからである。それは、私たち人類が、長い歴史の中で培って育んできたものであり、過酷な環境を、皆でよりよい社会にするという利他愛の進化の結果だからだ。進化というのは、同じことでつまずかないように、新しい概念を刷り込み、刷り込み、受け継がれ、DNAレベルに落とし込むからだ。 略 あるいじめや、虐待を目の当たりにしたとき、保身のため大人に言わないというのは、当然の選択かもしれない。根本の解決にはならない。また教師は既に気づかないフリをしているため、役には立たない。 いじめっこに、ターゲットにされないために、 皆がとる選択は、無視である。 その人そのものや、その話題を知らないフリをする。 大人に言わない、、まわりに言わない、見て見ぬ振りをすべて無視という形をとる。気づかないフリがよいとしている。 それは、私たちが、共に生きていく進化という目的に反しているから、法則が間違いを修正するために、作用するのだ。 人が溺れているのを、目にしたら、誰であれ飛び込んでいくのは、なぜか?いのちを、落とすかもしれないのに、だ。 それは、もし助けなくて、知らんぷりしたら、 その後は死んだ方がマシと思うくらい、重荷となるから、だ。それほど人には良心が、備わっている証であり、根底にある道徳心に触れるという、わかりやすい事件となり、それが人の心に触れるのである。 無視。 その後は、たいてい自分のもっとも大切なインスピレーションを失い、共感脳は、機能不全となる。 自分を正当化するために、なかなかそこに行き着かない。間違い、バイアスが、インスピレーションの邪魔をする。 大抵は、耳を塞ぎたく、次第に引きこもりとなるだろう。 自分を抑圧していけばいくほど、自分の役割が果たせなくなる。 社会に蔓延する問題は、個人がする選択にある。 解決するには、 遭遇した時、話しかけることである。 見知らぬ人が溺れていたら助けるのが本能であるように、本来人は放っておけないはずであるのだから、心身を健全に保つためには、それが正しい選択といえる。それはまさに溺れてる人を助けるに匹敵する。そうする人の、ささいな行為は、他人に映る世界をも変えることを信じること。一人、また一人、それが模範となるのだ。それが故に、貴方がターゲットになろうが、それを無視して生きるより遥かに多くの強さとなり、貴方に刻まれる。それは、やがて他が得ていない自分で考える力と、自分の行動による影響を、確固たるものにでき、自信というのをこの世界で勝ち取ることができる。自分の根底にあるものを、体験により、選択により、与えられるのだ。